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肺がん薬物療法の発展と
がんゲノム医療の将来への期待

自治医科大学 内科学講座 呼吸器内科学部門 教授
萩原 弘一先生

 患者数が多いことで知られる肺がんですが、治療法が大きく進歩し、予後が改善しています。近年では、治療につながる遺伝子変異の有無を調べる診断法が普及し、その結果に基づいて薬物療法が選択されるようになりました。さらに、多数のがん関連遺伝子変異を一度に調べられる検査も可能になり、有効な薬剤を効率的に選択できる「がんゲノム医療」への期待が高まっています。
 がんと遺伝子の関係、そして、がんに関連する遺伝子をターゲットにした治療の進歩について、肺がんのゲノム医療に注力されている萩原先生にお話を伺います。

【取材】2021年8月19日(木) 小山グランドホテル
萩原 弘一 先生
第1回肺がん患者数の増加と薬物療法の進歩
公開:2022年8月29日
更新:2022年11月

 第1回では、肺がんの患者数増加の背景と、がんが生じる仕組み、そして、肺がんと診断された場合の治療についてお話を伺います。

肺がんは誰もがかかる可能性がある

肺がんはどのくらいの割合でかかる病気なのでしょうか?

 現代の日本では、男女とも生涯で2人に1人ががんになり、3人に1人ががんで亡くなっています1)。日本人が100人いた場合、50人が何らかのがんにかかり、33人はがんで亡くなります。そして6人は肺がんを原因として亡くなるのです(図1)。肺がんは、誰もがかかる可能性がある病気です。

図1肺がんの患者数~日本人男性の場合

1) がん情報サービス 最新がん統計(がんと診断される確率は2018年のデータ、がんで死亡する確率は2019年のデータに基づく)

なぜ、がんになる人がこんなに増えたのでしょうか?

 平均寿命が伸びて高齢化が進んだことが大きな要因です。多くの人が長生きして高齢者になった結果、高齢者に多い病気であるがんが増えてきたのです。医学の進歩、環境の改善などのおかげで、平均寿命が著しく伸びた時代もありました(図2)。その結果、平均寿命が80歳を超えるようになりました。われわれは、平均寿命が40歳代であった昭和一桁と比べて、2倍の人生を楽しむことができるようになりました。さらにがんが克服できれば、120歳まで生きられる可能性があるのではないかと推測されています2)。がんを克服することで、あと40歳寿命を延ばせるかもしれません。

2)参考:奥 真也:「生存格差」時代を勝ち抜く 世界最先端の健康戦略, KADOKAWA, 2020

図2平均寿命(出生時の平均余命)の推移

(資料) 日本銀行「明治以降本邦腫瘍経済統計」、厚生労働省「人口動態統計」、国立社会保障・人口問題研究所「人口統計資料集」

 寿命の延長とともに増えたがん。それでは、がんとは一体何なのでしょうか?

萩原 弘一 先生

がんはどんな病気ですか?

 私たちの体の細胞は、細胞死と増殖を適切に繰り返し、新しい細胞に入れ替わります。しかし、化学物質、紫外線、放射線が遺伝子を傷つけた結果、コントロールの効かない細胞が生まれることがあります。増殖に歯止めが利かなくなった細胞が、無秩序に増殖して周囲の組織や臓器に入り込み、体の正常な機能を奪っていきます。これががんです。無秩序に増殖する細胞をがん細胞と呼びます。がん細胞は増えていくと塊(腫瘤)をつくります。体のあちこちに散らばる(転移する)こともあります。転移先の臓器にも腫瘤をつくり、体の機能を障害していきます。
 では、正常な細胞ががん細胞に変わる原因は何でしょう。それは、私たちの体の設計図である遺伝子の変異です。遺伝子はDNAの配列(A,G,C,Tの4つの塩基の配列;「がんゲノム医療とは」の項で解説)として記録されていますが、そのDNA配列が異常なものに変わります。私たちの体は、遺伝子の変異を修復する機能を持っています。しかし、その仕組みが十分働かない場合、重要な遺伝子に傷が付き、がんが発生することがあります。

 がんは遺伝子の変異によって起こる病気なのですね。がんにかかった場合、どのように治療するのでしょうか?ここからは、肺がんの治療方針について伺います。

もしも肺がんと診断されたら、どのようにして治療方針を立てるのでしょうか?

 まず、根治できるかどうか考えます。根治とは、全てのがん細胞を体から取り除き、がんを根本的に治してしまうことです。手術で全部取り切れるか、放射線を当てて全部焼き尽くせるか考えます。もし、がん細胞を完全に取り除いてしまうことができれば、治癒が望めます。

転移がある場合は、どのような治療が行われるのでしょうか?

 別の臓器に転移が見つかった場合は、元の病巣(原発巣)と転移先の病巣との間にがん細胞が散らばっていると考えます。元の病巣と転移先の間の臓器をすべて切除するわけにはいきません。そのため、全身に行きわたる薬物での治療を選択します。いままでの薬物療法では全てのがん細胞を殺すことはできず、根治は望めませんでした。しかし、近年、肺がん薬物療法は目覚ましい発展を遂げており、ほぼ完全にがんを押さえ込め、根治したのではないかと思われる人も出てくるようになりました。現在は、細胞障害性抗がん剤(化学療法剤)だけでなく、分子標的薬、免疫チェックポイント阻害薬という新しい薬を組み合わせて治療を行います。しかし、どの患者さんにどの治療をしたら良いかの判断はまだ簡単ではありません。しかし、遺伝子変異検査を行うと、効果の高い治療を選べることがわかってきました。さらに良い判断をするため、われわれは臨床研究を行い情報を集積しながら治療に取り組んでいます。

 近年、さまざまな薬剤が登場しています。作用の異なる薬剤の中から、一人ひとりに合わせた薬剤を選ぶために、今どのような医療が行われているのでしょうか。近年注目されている、がんゲノム医療について伺います。

がんゲノム医療とは

ゲノムとは一体何でしょうか?

 ゲノム(genome)とはgene(遺伝子)とome(すべて)を組み合わせた造語で、DNAに含まれる遺伝情報全体の総称です。DNAはアデニン(A)、グアニン(G)、シトシン(C)、チミン(T)という4種類の塩基が、長くつながったものです。4つの塩基の配列として、遺伝子が記録されています。遺伝子全部を記録すると、DNAはとても長くなります。仮にA、G、C、Tを、それぞれ1mmの文字で書いたとしましょう。その場合、DNAの長さは日本列島の端から端までの3000kmになります(図3)。もちろん実際のA、G、C、Tは1mmよりずっと小さいです。そのため実際のDNAの長さはもっと短くなりますが、それでも2mもあります。ヒトの細胞一つひとつに、それだけの長さのDNAが折りたたまれて入っています。
 この3000kmに相当する長さの遺伝情報中のたった1mm分、すなわち1個の塩基に変異があるだけで細胞ががん細胞になってしまう、DNAの場所があることが知られています。その場所にある遺伝子が壊れている(遺伝子変異がある)わけです。しかし、そんな遺伝子変異がある患者さんにとても有効な薬があることも分かってきました。細胞をがん細胞にしてしまうDNAの場所(遺伝子変異の場所)は多くないと考えられています。一つ一つの危険な遺伝子変異に有効な薬を、一つ一つ作っていったら、やがてがんは治る病気になるかもしれません。それが分子標的薬の考え方です。危険な遺伝子変異が分かるたびに、それに有効な薬が開発されています。どんな遺伝子変異があるか調べて、有効な薬がある遺伝子変異が見つかれば、その薬の投与を検討します。
 患者さんの持つ免疫機能を使ってがんを攻撃する方法もあります。それが免疫チェックポイント阻害薬の考え方です。
 分子標的薬も免疫チェックポイント阻害薬も、とても魅力的な薬剤です。現在は、両方の薬をうまく使い分けて、一人一人に合わせた治療を行うようになっています。

図3ヒト染色体DNA中の特定の部位

萩原弘一先生ご提供

「コンパニオン診断薬」と呼ばれるものは何でしょう?

 前述したように、危険な遺伝子変異のいくつかに対しては、すでに薬剤ができています。遺伝子変異が分かれば有効な薬が分かります。危険な遺伝子変異を調べる検査と薬剤が一つ一つ対(つい)になるのです。検査と特定の薬剤を対で使うのでコンパニオン診断薬(「仲間の診断薬」ということです)と呼ばれます。

「がんゲノム医療」とはどういうものでしょうか?

 がんゲノム医療とは、肺がんや胃がん、乳がんといった、がんが発生した臓器に基づいて治療を決めるのではなく、がんの原因となる遺伝子変異に基づいて診断や治療を行う医療です。多数の遺伝子を同時に調べる「がん遺伝子パネル検査」という検査を用いると、100種類以上の遺伝子を一度に調べることができます。がん遺伝子パネル検査で、がんの原因となる遺伝子変異が見つかり、それに対応する分子標的薬があれば、より効果的な治療が行えます。
 したがって、がんゲノム医療には2つの目的があると言えます。1つは、現在がんにかかっている患者さんにより適した薬剤を見つけようという「現世利益」と、もう1つは自分たちの子孫ががんになった時に個々の遺伝子変異に最適な薬剤が選択できるよう、多くのデータを蓄積し、創薬につなげようという次世代への利益です。言うなれば「来世利益」とでも呼べるものです。現在だけでなく将来の利益も両方考えていく医療だと思います。

 第2回では、がんゲノム医療のメリット、デメリットについて伺います。肺がん分野で解明されている遺伝子変異についても教えていただきます。

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